JICA海外協力隊『海とともに生きる島から、海とともに生きる国へ。大矢野町出身の川島千愛さんが、東南アジアの島国・東ティモールでJICA海外協力隊に挑みます。』かたりば vol.37

取材・原稿:飯野亮(写真はご提供いただきました)

修了式(東ティモール派遣メンバーと語学の先生)

東ティモールの風景
令和8年7月13日、上天草市役所の一室。SDGs未来都市・上天草市のロゴが並ぶパネルの前で堀江市長と握手を交わしていたのは、上天草市大矢野町出身の看護師・川島千愛(かわしま ちあき)さんです。8月4日から2年間、川島さんはJICA海外協力隊の一員として、東南アジアの島国・東ティモールへと向かいます。表敬訪問で見せた穏やかな笑顔の奥には、長い時間をかけて育まれてきたまっすぐなある想いがありました。JICA海外協力隊とは、JICA(国際協力機構)が開発途上国からの要請に応じて人材を派遣する事業。看護や教育、農業、スポーツなど活動分野はさまざまで、これまでに5万8千人あまりが世界99の国や地域へと渡り、今も74の国と地域でおよそ1,470人が活動しています。川島さんもその一人としてこの度、海を渡ります。

東ティモール空港到着後の空港(歓迎の印であるタイスを首にかけて)
〇看護師として、命と向き合ってきた日々。
大矢野町出身の川島さん、33歳。熊本医療センター付属看護学校を卒業後、熊本市内の病院にご勤務され、看護師として知識や経験を積み重ねてきました。特にこの5年間は、病棟の教育担当として後輩の育成にも携わってきたと言います。患者さん一人ひとりと向き合いながらも、次の世代の看護師も育てていく。その経験こそがこれから東ティモールで担う役割にもつながっています。

「いつか海外で働いてみたい」。その原点は、小学生の頃に聴いた一つの講話。
川島さんは、大矢野町中地区で酒類を取り扱う卸売業を営む家庭に、三姉妹の長女として生まれました。中学校までは吹奏楽部に打ち込む、活発な少女だったそうです。そんな彼女の心に、ある日聴いた一つの講話が、消えない種をまきました。
『小学6年生と中学1年生のときに、海外でボランティア活動をされていた方のお話を聴く機会があったんです。』

日本とは違う国で暮らす人々の生活や課題。とりわけ発展途上国の現状は、幼かった川島さんの心に強く残ったと言います。やがて看護師として働き始めた川島さん。目の前の命と向き合う慌ただしい日々を過ごす中で、海外への思いは少しずつ心の奥底へと隠れていったといいます。そんな想いをもう一度呼び起こしたのが、10年前に起きた平成28年の熊本地震でした。被災した経験をきっかけに、川島さんは災害支援に携わるようになります。その後もいくつもの被災地へと足を運び、支援活動を続けてきました。―大変な状況の中で、人の命と暮らしを支えるーその現場で、看護師という仕事のやりがいや大切さを、改めてお感じになったそうです。

平成28年熊本地震時の写真
『国内外を問わず、必要とされている場所へ、支援の手を差し伸べたい。』
幼い頃からの憧れに似たあの想いと、災害支援という経験で得た実感とが重なり、JICA海外協力隊という道が、川島さんの中ではっきりとその輪郭が見えてきました。
〇赴任先は、国境の町にある地域病院
川島さんが向かうのは、東ティモール。ティモール島の東半分を国土とする、2002年に独立した若い国です。人口はおよそ130万人。長い植民地支配と占領の歴史を経て独立した国で、公用語のテトゥン語とポルトガル語が話され、国民の多くがカトリックを信仰しています。その一方で、医療インフラや人材の不足など、今も大きな課題を抱えています。赴任先は、西部・ボボナロ県のマリアナ。首都ディリからバスで7時間ほど、インドネシアとの国境に近い県の中心地です。配属先となるマリアナ地域病院は、約100床を持つ地域の拠点病院です。川島さんに期待されているのは、病院全体の看護業務をよりスムーズにし、看護師たちの力を高めていくこと。現地の言葉・テトゥン語を使いながら、2年間、現場に寄り添って活動されます。

東ティモールの市場風景

〇かつての隊員が残した「5S」を、もう一度
配属先の病院には、これまでに栄養士と薬剤師の2名の協力隊員が派遣されてきたそうで、院内には、かつての隊員が取り組んだ「5S活動」の名残が今なお残っているとのこと。日本で生まれた「改善の考え方」が、遠く離れた病院にも受け継がれています。
※5S活動とは、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの頭文字をとった、日本の職場や製造現場から生まれた環境改善の手法です。医療や教育の現場でも広く取り入れられています。
しかしながらその隊員が活動していたのは、今からおよそ20年前。当時を知る職員はほとんどいないかもしれません。

東ティモールの風景
『そこは正直、少し不安なところではあります。』
まったくゼロの状態ではないけれども、かつての先輩方が活動され根づきかけたその取り組みをもう一度みんなで育てていく。そんな地道な一歩から、川島さんの2年間は始まります。その現地での関わり方には、教育担当として川島さん自身が大切にしてきた姿勢がそのまま表れているように感じます。
「相手の背景や経験を尊重しながら、一緒に考え、共に成長していく」。
一方的に教えるのではなく、現地のスタッフが持つ力や地域の強みを丁寧に理解し、共に取り組むー。東ティモールのマリアナという地域に誰もが安心して医療を受けられる環境をつくっていきたい。それこそが川島さんの描く2年間なのです。
〇言葉を、しっかりと
赴任先のマリアナは、国境に近い地域でもあります。川島さんは派遣に向けて、福島県にある二本松訓練所で約2ヶ月間、東ティモールの公用語であるテトゥン語を学んできました。さらに現地では、その土地ならではの言葉を学ぶ必要が出てくるかもしれません。

テトゥン語の語学クラス
『もしかしたら、現地の言葉を、テトゥン語を通して学ぶことになるかもしれません。不安ではありますが、現地の人に寄り添うためにも一生懸命学んでいきたいと思います。』
表敬訪問の場で、そう話す川島さん。その言葉には、現地の人たちと信頼を築くための大切な一歩を踏み出すという強い決意が感じられました。
海に囲まれた島から、海に囲まれた国へ

最後に派遣にあたって川島さんが楽しみにしていることについてお話しくださいました。
『現地で日本や熊本、そして故郷・上天草のことを紹介したいですね。東ティモールも、海とともに暮らす文化が根づいている国だと聞いていますので、共通点が多いと思うんです。』
漁業を営み、海の恵みを大切にする暮らし。四方を海に囲まれた上天草で育った川島さんにとって、それは決して遠い世界の話ではありません。海に生かされてきた島の人として、海に生かされてきた国の人たちと、どんな交流が生まれるのでしょうか。上天草と東ティモール。遠く離れた二つの土地は、「海」でつながっています。
そして今、川島さんが旅立ちを前にしていたまさにそのとき、故郷・熊本は再び大きく揺れました。令和8年7月28日に発生した熊本地震です。10年前、被災した一人として、そして支援に関わる一人として、地震の痛みと再生に向き合ってきた川島さん。海外へ出発する直前に、生まれ育った熊本が新たな災害に見舞われたことを、今どのように受け止めているのでしょうか。

平成28年熊本地震時の写真
令和8年熊本地震の発災は、私にとって本当に予想外の出来事でした。10年前の熊本地震をきっかけに「被災地の力になりたい」と志した災害支援ナースとして、本来であれば真っ先に現場へ駆けつけたい一心でした。しかし、派遣に伴い退職していたため所属がなく、支援に向かえないもどかしさと「故郷が再び苦しんでいるのに自分は何をしているのだろう」という強い罪悪感に苛まれ、渡航直前まで東ティモール行きを迷い続けていました。私が東ティモールへの赴任を決意するきっかけとなったのは家族が私にかけた言葉でした。
『「東ティモールにも、あなたの支援を待っている人たちがいる。熊本にはありがたいことにたくさんの支援が入っているけれど、東ティモールで支援するあなたの代わりはいないんだよ。自分たちも頑張るから、あなたはあなたのやるべき仕事が待っている場所で頑張りなさい。」この言葉で、赴任する決意を固めることができました。』
猛暑が続く中、断水や停電が続き、被災地で過酷な避難生活や日常生活を送られている皆様の様子を思うと胸が痛みます。東ティモールに赴任した今も、故郷・熊本を思わない日はありません。一日も早い復興と生活の改善を心より祈っております。災害下にある故郷を離れて渡航したからには、現地で一生懸命に活動に励み、在任中や帰国後にその成果を熊本の皆様へ還元できるよう努めてまいります。

平成28年熊本地震時の写真
〇学びを、いつかまた、この土地へ
2年間の任期を終えたあと、川島さんはふたたび看護師として日本の現場に戻ることを考えています。限られた環境の中で工夫しながら医療を届ける経験、多様な価値観を理解しながら人と協力する姿勢。東ティモールで得る学びを、日本の医療現場や後輩を育てる場へ生かしていきたいと話します。
『私の経験を周りに伝える事で、海外や国際協力に興味を持つ人が増えたらうれしいです』
海とともに生きる島から、海とともに生きる国へ。上天草で育った一人の看護師の、2年間の挑戦が始まります。川島さんの旅立ちに、心からのエールを送りたいと思います。




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